「こうでなければならない」というプレッシャーが大きすぎる
「自然体」の大切さ
「こうでなければならない」というプレッシャーが大きすぎる
こんにちは、理事の本間です。
小学校の現場を離れて2年。
ふりかえってみると、
子どもたちが背負っているものの大きさについて、
改めて実感させられます。
生きる力につながる「確かな学力」をはじめ、
「変化の激しい先行き不透明な時代」を生き抜くために、
必要だと思われる様々な力を子どもたちが
身につける教育が求められてきています。
それにしたがって、
学校教育に求められる教育も
多岐にわたります。
道徳教育、
キャリア教育、
ICT教育、
特別支援教育、
食育、
プログラミング教育・・・。
もちろん、みんな意義のある大切な
教育内容であることは間違いありませんが、
受け取る側の子どもたちの負担は
いかがなものでしょうか。
そして、学校、そしてそこで働く教員に対しての
「こうでなければならない」
「こうあらねばならない」
というプレッシャーは、
どんどん大きくなってきているように思えます。
私は、学校で保護者や教員のみなさんに
お話をする機会があると、
次の2つのことが大切で、
あとはもっと自由でいいはずだ、
という話をしています。
私が考える「2つの大切なこと」とは、
① 子どもが夢をもてるようにすること
(自己実現の支援ができる学校)
② 人がいやがることはしない、いやがることは言わないこと
(望ましい人間関係を構築する力を育てる学校)
現在、学校でもっとも力を入れている課題である
「学力向上」も、①の課題の中の一つだと考えています。
「こうでなければならない」という課題が多くなると、
子どもにとっては過重負担になります。
常に何かを求められ、
何かに追われる中では、
余裕がなくなりアドレナリンが出っぱなしの、
緊張に満ちた生活になるのではないか、
と懸念します。
そこで大切なのは、
「人間は自然の中の生き物の一つである」
という考えに基づく「自然体」の大切さの再確認です。
先日、最近亡くなられた映画監督である
高畑勲さんの作品
「かぐや姫の物語」
がTVで放映されていました。
その映画の挿入歌「わらべ唄」に、
私は心を奪われました。
わらべ唄(原詞)
作詞:高畑勲 坂口理子 作曲:高畑勲
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる
主人公のかぐや姫は、
穢れ無き月の世界で罪を犯し、
「穢れた世界」である地上に下ろされます。
育ての親である「竹取の翁」が考える
「かぐや姫の幸せ」は、
帝や高い官位の貴族と結婚することや、
贅を尽くした生活をすることでしたが、
かぐや姫が望んだのは、
地球の上において自然体で生きることでした。
月の世界では「穢れている世界」
と言われている地球は、
上記のわらべ唄に歌われているような
豊かな自然や、
地道に生きる市井の人々の純粋な喜びに彩られた
「かけがえのないもの」であることに
かぐや姫は気がついたのでした。
帝や官位のある高官に嫁いだり、
金や宝物にかこまれ贅をつくした
暮らしをしたりすることが
「かぐや姫の幸せ」
と考えて、かぐや姫のために力を尽くした
「竹取の翁・媼」の優しさを理解しつつも、「本当の幸せはそこにはない。」
と考えるかぐや姫の思い。
この「本人と周りの人との考え方のギャップ」は、
今の子どもたちのおかれた状況に似ているように感じます。
今、学校現場では、
「変化の激しい世の中を生きていくため」に、
子どもにつけるべき力を様々教育の中に
盛り込む実践を進めています。
確かに、子どもが生きていくために
重要な教育内容は様々あると思いますが、
私はそれらに振り回されすぎることを懸念します。
子どもにとって未来はもちろん大切ですが、
何よりも「今」を自然体で生きることが大切です。
子どもを信じて、もっともっと自由に、
自然体で生きていける「今」を
大切にしてあげたいものだと思います。
「いそがしい」という漢字「忙」という字は、
「りっしんべん」に「ほろぶ(亡)」と書きます。
つまり、「忙しい」というのは、
「心がほろぶ」ことにつながる、
ということを表しています。
余裕のない生活は、
心をほろびします。
これは、大人も子どもも同様のこと。
もっと、子どもたちを自然体で、
余裕のある生活ができるようにしてあげたいものです。